新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

日清が琉球分割条約を締結、先島に小琉球国が建国?

  • 琉球の王族を先島の小王国の王にする案が浮上

日清会談は不調でありながら、進み続けていた。
清はロシアとの国境紛争(イリ問題)を抱えており、
日本とは何とか外交で琉球の帰属問題を解決したい腹だった。


それには日本にやや譲歩して日清連携を成し遂げ、
北のロシアに対して共同で当たりたいという思惑もあった。

当時のロシア皇帝 アレクサンドル二世


正式交渉は、1880年、8月18日から開始され、
日本側の分島、快約案をベースに八回の会談が繰り返され
10月21日に終わった。


清国側は、日本案に少し色をつけた先島に琉球の王族を
王として配置し、小琉球国を再興するという提案を
考えていたのである。


  • 清国は尚泰、尚典の身柄の引き渡しを要求する

その為に清は東京に身柄を移された、旧琉球国王、尚泰、
王世子、尚典の身柄引き渡しを日本に要請した。

尚泰


しかし、日本政府は、これを拒否、暗に北京にいる
向徳宏:幸地朝常を国王にすればいいと提案する。

向徳宏:幸地朝常


清国総理衙門は、幸地が受け入れるか不安ではあったが、
李鴻章が説得するという事で日本の提案を飲んだ。

こうして清国側は、日本の提案に基づく、
宮古、八重山に小琉球国を復興させるプランで、
琉球分割条約を締結したのである。


調印式は、それから10日後であった。



つづく・・







まるでスパイ映画、水面下で戦う日本政府と亡命琉球人2

  • すれ違う日清両国

竹添公使は一度帰国し、李鴻章の意図を明治政府に伝えました。


そこで明治政府は、グラント元大統領の提案を元に、
琉球の南島(宮古・八重山)を清に割譲し、その見返りとして
日清条約を改定し、日本に欧米諸国並みの清国内での
通商特権を認めてくれるように打診します。


琉球は日本であると言い併合を強行しながら、
清国内での商売を円滑にする為に、

進んで清国に先島を割譲するというのが
明治政府の本音であったわけです。


この事はやがて新聞に素っ破抜かれ、内情を知った
沖縄県民は政府に対して強い不信感を抱きました。


  • 李鴻章、日本案に難色を示すが総理衙門に通告

1880年、三月二十六日、竹添は再び渡清して、
日本政府の先島割譲+通商特権の付与を求めました。


李鴻章は表面上は、この提案に猛反対しますが、
北京の総理衙門への打電では、
「日本案を受け入れても構わないと思う」と感想を伝えます。



しかし、総理衙門は李鴻章の提案に難色を示します。


他でもない、幸地朝常等が
北京で嘆願を繰り返している中で
先島を分割して清の領土にし沖縄本島を

日本に譲る提案は飲めなかったのです。


  • 李鴻章、再度の竹添との会談で三島分割案を提示

そこで李鴻章は、駐日公使の何如璋の意見を、さも、
グラント元大統領の意見のようにすり替えて提案します。

何如璋(1838~1891)


その提案では、琉球列島を三分割し、奄美大島以北を
日本領、沖縄本島は琉球王国として存続させ、
先島は、清国領とするという事になります。


これでは日本政府は、苦労して断行した琉球併合を無にする
事になり、今度は竹添公使が拒絶して帰国。
協議は一旦は、物別れに終わります。


続く・・




まるでスパイ映画、水面下で戦う日本政府と亡命琉球人1

不謹慎と思われるかもしれませんが、
琉球処分前後の頑固党と明治政府の情報戦は
まるでスパイ映画のようで面白いです。
映画なら、どんなに派手でもフィクションですが、
こちらは本当なので感慨の深さも半端ではありません。


  • 明治政府、琉球処分を断行、そこからドラマが始まる

1879年、4月4日、廃琉置県は大きな衝撃を与えました。
本島から宮古・八重山に至る全域で布告に対する隠然、公然の
抵抗が発生し、明治政府の暴力による鎮圧の後、これに納得しない
琉球士族が、清に亡命していきます。


廃琉置県のニュースは、五月には、福州の琉球館に伝わります。
それは、沖縄県から遭難を装いやってきた密航船でした。
受け取ったのは、幸地朝常です。

幸地朝常(1843~1891)



さらに六月には、東京から、尚典(王太子)より
福州商人に託された廃琉置県の詳細な情報が幸地に届きます。

尚典(1864~1920)


幸地は五月の第一報で配下の蔡大鼎を天津の李鴻章に派遣して
日本の情勢を伝えさえ、琉球の苦境を訴えます。


幸地も六月の尚典からの情報で天津へ飛びました。
そして七月初旬には、最初の救援請願書を出します。

李鴻章(1823~1901)


十月、蔡大鼎、林世功等も福州から天津へ移動し幸地と再会します。
この頃には、アメリカのグラント元大統領による琉球三分割案が
提示され、事態に驚いた亡命琉球人は北京へ移動、
総理衙門や礼部へ嘆願書を出し続けるものの、成果はなく
福州への帰還を命じられます。

ユリシーズ・グラント(1822~1885)



しかし、幸地は、北京滞在を要請して、執拗な嘆願要請を繰り返します。


亡命琉球人の動きを察知した日本政府も動きます。
幸地朝常の天津入りと前後して、朝鮮弁理公使、竹添進一郎を派遣、

竹添進一郎(1842~1917)


竹添は李鴻章を尋ねると、ひたすら日清連携の必要性と、
廃琉置県の正統性を説明すると共に、
幸地朝常は日清連携を阻害するガンであり
決して請願を聞き入れないように釘を刺します。


李鴻章は竹添の日清連携に深くうなずきながら、
琉球を無視する事も出来ず、外交交渉における問題の解決を
模索し始めるのです。




ここまででも、李鴻章、グラント元大統領と
小国琉球の帰属を巡り19世紀の世界を代表する大物が
登場しますが、この話は、まだまだ続くのです。