不謹慎と思われるかもしれませんが、
琉球処分前後の頑固党と明治政府の情報戦は
まるでスパイ映画のようで面白いです。
映画なら、どんなに派手でもフィクションですが、
こちらは本当なので感慨の深さも半端ではありません。
1879年、4月4日、廃琉置県は大きな衝撃を与えました。
本島から宮古・八重山に至る全域で布告に対する隠然、公然の
抵抗が発生し、明治政府の暴力による鎮圧の後、これに納得しない
琉球士族が、清に亡命していきます。
廃琉置県のニュースは、五月には、福州の琉球館に伝わります。
それは、沖縄県から遭難を装いやってきた密航船でした。
受け取ったのは、幸地朝常です。
幸地朝常(1843~1891)
さらに六月には、東京から、尚典(王太子)より
福州商人に託された廃琉置県の詳細な情報が幸地に届きます。
尚典(1864~1920)
幸地は五月の第一報で配下の蔡大鼎を天津の李鴻章に派遣して
日本の情勢を伝えさえ、琉球の苦境を訴えます。
幸地も六月の尚典からの情報で天津へ飛びました。
そして七月初旬には、最初の救援請願書を出します。
李鴻章(1823~1901)
十月、蔡大鼎、林世功等も福州から天津へ移動し幸地と再会します。
この頃には、アメリカのグラント元大統領による琉球三分割案が
提示され、事態に驚いた亡命琉球人は北京へ移動、
総理衙門や礼部へ嘆願書を出し続けるものの、成果はなく
福州への帰還を命じられます。
ユリシーズ・グラント(1822~1885)
しかし、幸地は、北京滞在を要請して、執拗な嘆願要請を繰り返します。
亡命琉球人の動きを察知した日本政府も動きます。
幸地朝常の天津入りと前後して、朝鮮弁理公使、竹添進一郎を派遣、
竹添進一郎(1842~1917)
竹添は李鴻章を尋ねると、ひたすら日清連携の必要性と、
廃琉置県の正統性を説明すると共に、
幸地朝常は日清連携を阻害するガンであり
決して請願を聞き入れないように釘を刺します。
李鴻章は竹添の日清連携に深くうなずきながら、
琉球を無視する事も出来ず、外交交渉における問題の解決を
模索し始めるのです。
ここまででも、李鴻章、グラント元大統領と
小国琉球の帰属を巡り19世紀の世界を代表する大物が
登場しますが、この話は、まだまだ続くのです。