帝国主義だった琉球
佐敷王統は、国内統一で余った
エネルギーを更に北へと向けます。
そのターゲットになったのは、
奄美大島や喜界島であり、
そこには、島津氏の代官である
千竈(ちかま)氏がいました。
1450年代には、琉球は
奄美大島を千竈氏と
奪いあっていたようで
尚巴志の息子である
尚布里(しょう・ふり)が
奄美大島の攻防戦で
激戦の末に千竈氏を
辛うじて退けたという記録があります。
当時の琉球の国境線北限は
臥蛇(がじゃ)島でした。
朝鮮漂流民の記録に、
臥蛇島は、
日本と琉球で半分に
分割されている
という記録があります。
当時の琉球は帝国主義の時代であり
周辺国にも、その強兵を恐れられる
時代であったのです。