新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動2

  • 帝国議会でも取り上げられた八重山開墾問題


没落した旧士族に職を与える名目で行われた杣山問題は、
沖縄のローカルな問題では治まりませんでした。
同時期に行われた八重山の原野を切り開く開墾事業でも、
同じく、土地の払い下げが行われましたが、
ここでも奈良原の恣意的な払い下げが問題になります。


明治27 年5 月26 日の午後1 時20 分
衆議院本議会において長野県選出の木内信は、
奈良原県知事の開墾政策についての質疑を行っています。



つまり、杣山問題は帝国議会で取り上げられる程に
明確な汚職と考えられたのです。


木内は、貴族院議員の小室信夫、内務官僚の松岡康毅、
東京の砂糖商、鳥海清左衛門、殿木善兵衛、中川民七、
貴族院議長蜂須賀茂韶侯爵の家令、藤本文策、


中川虎之助の八重山での代理人、中村旭、
それに奈良原県知事の甥と言われる久保吉之進などが
八重山開墾を申請した経緯が不透明であるとして
知事を管轄する内務大臣へ詰問します。


官吏としての服務規律違反を疑われた
松岡康毅(まつおかやすこわ)


木内の質問は以下の4点


1「開墾借地願」では洋式製糖場建設のために
蔗作農場用として原野の借地を認めてほしいと
申請された際に、きちんと確認したのか?


2 1点目を確認しているのなら、いつ、
どのような場所に建設したどんな製糖場のことなのか、


3 松岡とその他9 名は願書と沖縄県知事が与えた
「命令書」の規定に反して開墾地を第三者に貸しているが、
なぜ政府はそれを黙認するのか?


4現在内務次官の職にある松岡は官吏服務規律に
抵触するのではないか。


  • 返答は全く誠意のないものに終始

これに対する答弁は、5 月30 日に内務大臣臨時代理、
芳川顕正司法大臣が行います。

芳川顕正(1842~1920)


1 1については、上記の申請が製糖場建設を必要条件として
認可したのではないと承知しているので問題ない


2 3については、第三者への転貸の事実はないと認識している。


3 4については、八重山開墾申請時には
松岡は内務次官ではなく、また、八重山開墾事業も
困窮士族の救済事業で商業目的の払い下げではないので
官吏服務規律には抵触しないと考える。


答弁は、この程度の簡単なもので終わりました。


  • 納得できない木内は再度の答弁を求めるが・・

治まらない木内は、松岡らが明治27年4 月に結んだ
「八重山開墾組合契約証」を提示し、彼等の命令書違反を主張します。
しかし、政府からは答弁はないままに問題はうやむやになりました。


ただ、この八重山開墾問題は、遥かに中央で聞こえる程に
ダダ漏れの汚職であり、その原因として中央の政治家、
内務官僚、本土商人、華族の家令が絡んでいる事が挙げられます。


沖縄は、こんな昔から日本政府の食い物であり、
それに対して、沖縄からは政治的なアクションが起こせない
そのジレンマは沖縄県人の中に溜まっていったのです。


つづく・・・






杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動1

  • 蔡温が維持した杣山が奈良原知事の食い物にされる


今から200年前、琉球における燃料とは、すべて木材でした。
今のように、足りない物資はどの国からでも輸入できる時代ではないので
必然的に資源の確保は必要不可欠の政策になっていきます。


しかし、折からの製糖ブームにより17世紀後半から各地の木材は
無計画な伐採が続き、洪水や赤潮のような被害が出るようになります。
このような事態を解消しようと立ちあがったのが名宰相 蔡温でした。


蔡温(1682~1762)


林政八書を著し、国内森林を保護し、植林を行い乱伐を厳しく
制限した蔡温の政策により禿山になる筈だった琉球の森林資源は、
温存され、明治維新、琉球処分を迎えます。


無計画な伐採から北部の広大な森林が守られたのは、
実に名宰相、蔡温の大きな功績でした。


  • 没落士族の救済を口実に杣山の払い下げが始まる


蔡温が没してから、131年後、1893年、
就任二年目の沖縄県知事、奈良原繁は、
没落した旧琉球士族の生活の救済の為に、
杣山を開墾して農業地や製糖工場を建設するなどの
産業基盤にする政策を打ち出すようになります。


奈良原繁(1834~1918)


前年の丸岡知事の時代に農業技師として県庁に勤めていた
謝花昇は、この土地調査委員であり、払い下げに認可を出す
立場にありました。

謝花昇(1865~1908)


しかし、困窮する士族への杣山払い下げは、ただの口実であり
事実上は数年後にやってくるであろう土地の区画整理に備えて
莫大な官有地を私有地として金持ち連中に切り売りするもので


そこには、困窮する下級士族への救済などほとんど念頭にない
ただの沖縄の天然資源の私物化がありました。


事実、払い下げの申請にくるのは、王府の高官や、金持ち
鹿児島の実業家、さらに本土の政治家まで含まれていました。


それは、貴族院議員の小室信夫、内務官僚の松岡康毅等
奈良原の引きで利権に預かろうという面々で、
何となく、現在、沖縄の軍用地を保有している
政党政治家のお歴々を想起させます。


  • 許可を渋る謝花を奈良原は左遷する


さらに、奈良原の計画は農林の実情を全く踏まえない恣意的なもので
この通りに払い下げて開墾を許すと、返って自然災害を起こす
可能性さえありました。


土地調査委員の謝花は、細かい禁止事項を造り、
ただの土地取得の為の申請は全て、はねのけたので、
次第に奈良原の怒りを買い、1894年の9月には、
意のままにならない謝花を左遷しました。



                  つづく・・・










親日派と見られた毛鳳来の決断で琉球分割条約破れる

  • 再び甦る琉球分割の悪夢

林世功の自決、そしてイリ条約の締結により、一度は廃案となった
琉球分割条約(先島分島案)ですが、それは日清間に軍事的な緊張を
もたらす事になります。


領土問題の棚上げは、武力による状況解決の道を開くと、
日清双方は恐れ、日本では清国脅威論が盛んに論じられました。


  • 李鴻章が再び変心、琉球分割条約に執念を見せる
一時は、積極的に条約の廃案に動いた李鴻章は林世功の自決から
一年経過すると再び熱心な条約賛成派になります。

「先島を日本の勢力から切り離し、独立国とする事で、
この問題を最終的に解決する事とする」


李鴻章は、このように述べ、条約に慎重になった総理衙門に
逆に重圧を掛けるようになります。

  • 外務卿井上馨 尚泰、尚典の清国への返還も視野に入れる
1881年の12月、天津領事になっていた竹添進一郎と李鴻章は
密談を持ち、再び、日本案に沿い、日清修好条規を改正して、
日本の清国内での通商の自由を許す事と、先島の分島案をセットで
条約を結びたいという意欲を伝えます。

ついては、宮古・八重山諸島の小琉球国建国を拒否した
向徳宏に代わり、東京住まいの尚泰・尚典の親子の身柄の転籍を
認める事を井上は了承します。


外務卿 井上馨(1836~1915)


領土問題さえ解決できれば、一度は滅ぼした琉球国が、
先島に出来ても、日本政府は構わなかったのです。
どこまでも身勝手な政府の体質がうかがえます。

  • 黎庶昌、与那原良傑に琉球分割条約の承認を求める
二代目の駐日公使の黎庶昌は、東京在住の与那原良傑を呼び出し

首里城の返還を条件に琉球分割条約の承認を求めます。

一度は引き下がった与那原は、大変な事になったと困惑し


黎庶昌のプランを北京の毛精長、琉球の士族にも

通達し阻止行動を開始します。

北京の毛精長は、報告を受けると直ちに嘆願活動を再開、


「黎庶昌案では、琉球国復活は実現できない、

これは亡国の案だ」


と猛烈に反対を開始しました。


  • 最後の三司官毛鳳来、官職を辞して亡命嘆願

沖縄県でも、黎庶昌プランに対して猛烈な議論が巻き起こり、


「即ち、直ちに全権使節を送り、

すべての領土を回復した上での

琉球国復活を嘆願する」と方針が決定します。


この時、最後の三司官として、沖縄県庁顧問官として仕え

親日派と目されていた毛鳳来(富川盛奎)が使者に選ばれました。

毛鳳来(富川盛奎)1832~1890


最後の三司官として、琉球国の領土の保全に責任を感じた

毛鳳来は政府の職を棄て、家族にも知らせず沖縄県を離れました。

福州に入る途中、毛は宮古・八重山の士族にも分島案を伝え、


驚いた先島士族も分島案の中止を求めて北京に代表を派遣します。

北京に到着した毛鳳来は、最後の三司官として亡命琉球人を纏め

琉球分割条約の廃案を求める活動を開始。


これには、対日強硬派の清朝の役人も勢いづき、

総理衙門は、再三にわたる李鴻章や天津領事、竹添の要請を

撥ね退け、遂に琉球分割条約は完全に廃案となりました。



琉球士族は、もちろん現代の沖縄県ではなく、

旧来の琉球国を復活させようとしたわけですが、

その熱心な運動こそが、現在の沖縄県の領域を守った

という功積を忘れてはいけないでしょう。


彼等がいなければ、或いは彼等が先島に

琉球国を建国するという妥協案に応じていれば、

その後の歴史の中で沖縄と先島の関係がどうなっていたか?

今のような状態では無かった事だけは明らかです。