新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成8

  • 薩摩藩と明治政府を強引に結びつける破綻した根拠


ドヤ顔をした明治政府の琉球併合に関する正統性の屁理屈は、
なおもとどまる所を知らない・・
すでに古代において、琉球国が大和朝廷に服従していたという


論拠もあやふやな事を主張した明治政府は、




次には、琉球が薩摩に支配されていたから
すなわち日本領であるという、唖然とする論法を出してくる。
しかも、その文書が出典不明怪文書一通なのである。


  • Ⅳ近代史 島津の附庸(保護国)
①嘉吉元年(1441年)時の将軍、足利義教は島津忠国の
日本国に対する顕著な功績を認め、その恩賞として琉球諸島を与えた。
その時より近年に至るまで琉球はずっと島津の附庸だった。

出典:ウィキペディア 足利義教(1394~1441)


②かつて朝鮮征伐を企てんとの豊臣秀吉は琉球が島津藩主に対し、
納税の義務を怠った故を以て、その軍資金の幾ばくかを
納入するように琉球王に求めてきた。
その要求そのものは受け入れられたものの、
実際には要求額の半分しか納められなかった。

■明治政府の主張への反論①

もっともらしい事を並べてはいるが、第一として、
この嘉吉附庸論は、島津藩に「薩藩古記録」があるだけで、
同じ文書が室町幕府からは発見されていない。

新井白石が記した「琉球事略」によると、
琉球国が室町幕府と初めて接触した事が
文書で確認されるのは西暦1451年で、
8代将軍、足利義政の時代であり、
その時、銅銭一千貫を幕府に納めたとされる。

出典:ウィキペディア 新井白石(1657~1725)


公式文書に残る最初の接触が1451年なのに、
その10年前に室町将軍が島津忠国に、
琉球諸島を与えるなどあり得るのか?


ついでに言えば、当時すでに権力を失い、
有力守護大名の対立に振り回された室町幕府が、
遥か南の琉球に影響を及ぼし、ましてや、
支配していたという事実もない。


豊臣秀吉が要求したのは矢銭(軍資金)である


秀吉の朝鮮出兵に関しては、島津国史に以下の記述がある。


1591年、尚寧王は、建善寺の大亀和尚と、
茂留味里(もろみざと)大屋子を薩摩に派遣して、
秀吉の関東平定を賀した。
琉球は困窮のため産物を送る事は出来ない。
楽工を献じていささかの儀としたいと述べたが、
逆に義久は、王に書を送り、



「関白秀吉は朝鮮を討つため、
薩摩・琉球の兵を一万五千に割り当ててきた。
しかし貴国は軍事に習熟していないから、
兵を出さなくてもよい。
その代わり七千人分の十カ月分の食料を来年の
二月までに坊津までもってくるように、
また名護屋城の築城にも金銀穀米で助成せよ」



尚寧王は、それを履行しなかったので義久は催促し
王はようやく、その半分を納め、島津氏に負債した
形になっていたが残りは返済しなかった。


出典:ウィキペディア 尚寧王(1564~1620)


この島津の文書を見ても、琉球が島津氏に対して、
納税の義務を負っていたとは見れない。
天下人になった秀吉が、島津氏を介して、
琉球にも朝鮮出兵の為の矢銭(軍資金)を出せと
島津氏を仲介して命じ、それを義久が、
あわてて琉球に催促しているだけである。


②かつて朝鮮征伐を企てんとの豊臣秀吉は琉球が島津藩主に対し、
納税の義務を怠った故を以て、その軍資金の幾ばくかを
納入するように琉球王に求めてきた。


↑このような事実はなく、秀吉はただ、朝鮮出兵の軍資金を
直接ではなく島津氏を通して、琉球にも出せと脅迫し
琉球はやむなく半分払い、あとは知らんふりをしただけだ。


■自国の資料で自爆している島津氏


まとめてみると、室町将軍が、①島津忠国に琉球諸島を与えた
という嘉吉附庸説の根拠の記録は、島津にのみあり室町幕府にはない。
さらに琉球船が室町幕府に接触した公式な記録が1451年で
嘉吉附庸説より、10年も後である事から、文書自体が
ねつ造の疑いが濃厚である事。


②朝鮮征伐を企てた豊臣秀吉は、琉球が島津氏に納めるべき
年貢を納めない事を責めたのではなく、ただ、島津氏を
仲介して琉球にも朝鮮征伐の軍資金を出せと脅迫したに
過ぎない事がハッキリする。


つまり、西暦1609年の島津氏の琉球侵略まで、
琉球国は島津氏の支配下には無かったのである。



明治政府の要人には、薩摩閥が多いが、
自分の藩のねつ造文書で自爆するとは、
因果応報であると言えよう。

















シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成7

  • 民族的な近さを併合の根拠にする明治政府の愚


日本自体が隣国である朝鮮半島、そして中国から、
数百年に渡り無償にして多大な文化的な影響を受け、
その模倣の土台の上に、独自の文化を築いたという事実を無視して、
明治政府は、琉球と日本の文化的な近さを嫌らしく強調してくる。


それは、日本文化を使っている琉球は俺達のモノだ、
と文化を使わせてやっている権利を主張するような口ぶりでした。
本来、無償である文化の伝播を支配の根拠にしようという
明治政府のケチな料簡には呆れるばかりだ。



  • 日本民族と同系

①琉球の人々は系統上、日本帝国に定着する日本民族に
他のどの民族より近い存在にある。



②儀礼に徹する祝宴の場などにおける仕来り、様式はすべて
日本において「小笠原流」として知られるものに従う。
武家礼式の創案者の名に因む流儀である。



③また「中山伝信録」に記されるように、中国における慣例とは
違い人々は椅子、腰掛の類を用いない。
日本全国至るところで見られるように人々は床に座し、
各自、それぞれ前にしつらえた小さな卓に食物を盛る。


■明治政府への反論①


冒頭で明治政府が主張する、
琉球の人々は、系統上、日本帝国に定着する日本民族に
他のどの民族より近い存在である。


という事が琉球併合の根拠にならない事は、
同民族、同言語でありながら、別々の国を建てている
ドイツ・オーストリアを見れば明らかである。


また、マレーシアのように多民族が一国を成すなど
同民族・同言語の人々が一国を成すなど
建国の一つのケースでしかない。


多くの場合、国家の形成は政治的理由であり、
1879年当時、琉球人が日本への併合を望まなかった事を見ても、
明治政府の主張に正当性はない。


■②薩摩や幕府への対応が小笠原流というだけ・・



儀礼に徹する祝宴には小笠原流が使われるという事を
沖縄併合の根拠にするのは、噴飯もののひどさである。
それは、琉球在番でやってきた薩摩在番の役人への接待で
必要に迫られた為に習得したからだ。


ウィキペディア :小笠原流弓術


1666年、薩摩侵略以後顕著になった疲弊した琉球を
立て直すべく摂政になった羽地朝秀は、琉球の士族に
必ず一芸の取得を命じた。


その中には、大和芸能や所作、儀礼も含まれていて、
小笠原流の習得者が薩摩への対応、或いは、江戸立てなどの
使者として選抜されたのである。


同じように琉球人は、中国に渡れば中国の礼法を完全に
マスターして臨んでいる。


ウィキペディア: 三跪九叩頭礼


翻って聞きたいが、明治政府の要人は、
西洋人を招いての晩さん会を小笠原流で行うのか?
こんなものを共通の文化と言い張るのが、
いかに言いがかりで幼稚な事か分かりそうなものだ・・



■③中国文化への無理解をさらけ出している・・



再び、バカの一つ覚えのように、1719年に来琉した
徐葆光の「中山伝信録」を引き合いにしているが、
今回は、これまでで最高の墓穴を掘っているので、
指摘しておきたい・・


明治政府は、中国は椅子とテーブルの文化であり、
琉球も日本も床に座り、膳で食事を取る文化だから、
日本と琉球は近い、中国は遠いと言いたいらしいが、


彼等は「墨子暖席せず」という
故事成語も知らないようだ。


席とは座席の事で、床に敷いていた敷き物を意味する。
思想家であった墨子は多忙で席が体温で暖まる間さえ
一か所に留まれなかったという意味だ。


中国では、10世紀頃までは、少し前の日本や沖縄と同じく、
床に敷物を敷いて座り、膳で食事をする文化だった。
それが西域の遊牧民の支配を受けて椅子とテーブルの
生活に変化したのである。

3世紀頃の中国の主従の宴会の様子を書いた壁画



このような中国の文化は、日本に流入し、
文机や、脇息、屏風、木履、膳のような道具は、
中国が床に座る文化だった時代に日本に伝来したのだ。


自らが生活する上で使用している道具が、
中国由来だとも知らず、現在の中国ばかりを見て、
日本も琉球も床に座る文化で椅子とテーブルの中国とは違うと
臆面もなく言いだすとは、、
まず中国文化を理解してから出直せと言いたい。















シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成6

  • 信仰や生活習慣に手を突っ込む明治政府

1879年、10月11日に東京タイムスに掲載された、
琉球併合に対する明治政府の正当性の主張は、
次に、沖縄の信仰や生活習慣、文化に渡っていきます。


もはや、なりふり構わず、何でも似ていそうな部分には
手を突っ込んでしまえという意図が見えるものですが、
それは、ともかく、その内容を紹介します。


  • 土着の宗教は神道
土地の人々の信仰するのは、日本民族特有の神道である。
信仰の対象となっているのは、伊勢、八幡、天神、熊野の神々であり、
これらは全て神道の守り神である。


明治政府への反論 

いわゆる琉球八社、


①波上宮・護国寺、②沖宮・臨海寺、③天久宮・聖現寺、

④八幡宮・神徳寺、⑤識名宮・神応寺、⑥末吉宮・遍照寺、

⑦普天間宮・神宮寺、⑧金武宮・観音寺


これらの中で、八幡宮・神徳寺だけが八幡宮をルーツにし、

残りの七社は熊野権現からの勧進である事はよく知られている。


明治政府は、それを指し示して、

琉球人は神道を信仰する日本人ナリと

ドヤ顔をするのであるが、

これには、大きなカラクリが存在する。


有名な熊野権現は、平安時代以後、神仏習合が起きて、

①熊野本宮大社の主祭神の家都御子神は阿弥陀如来とされ、

②新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神は薬師如来、

③熊野那智大社の熊野牟須美神は千手観音と見做された。


これにより熊野権現は神仏習合し浄土信仰の本山となり、

仏教の影響が強くなる。


平安末期には、世の中の騒乱に従い末法思想が流行し、

死んだ後の極楽往生を求める浄土信仰が盛んになり、

後白河法皇などは34回も参詣している。


後白河天皇(1127~1192)


院政を敷いた歴代上皇もそうである。


熊野権現は、こうして権力者に手厚く保護されたので、

勢力が強まり、山伏や仏教僧により全国各地に

熊野権現の勧進が行われた。

こうして全国には3000という熊野神社がある。


琉球に、熊野権現の勧進を行ったのは日本から、

渡って来た日秀などの仏教僧や琉球から大和に渡った

鶴翁智仙などがいる。


さて、神仏習合を果たした神道を純粋な日本民族特有の

神道と言えるのだろうか?


■神道は、世界中の民族の原初の信仰形態


また、神道を日本特有の信仰というのも疑問である。

そもそも、どのような文明も民族も当初の信仰は、

多神教であり、太陽や月、大地、動物、先祖を敬うからだ。


日本も琉球も、原初は万物に神が宿るという観念を信仰し、

かたや日本は仏教の伝来で神道に神社という形が生まれて、

やがて神仏習合が起き、古い形の神道は変容した。


一方で琉球では、仏教が特権階級の信仰に留まり、

庶民にまで降りなかったので、

神道の原初である万物に神を見出す太古の神道が継続し続けた。


二つの地域は、国産み神話などに共通点があるものの、

まるで違う神話も沖縄にはあり、例えば、古宇利島に伝わる、

アダムとイブ伝説にそっくりな神話もその一つである。



万物に神を見出す素朴な神道という信仰は、

日本と琉球に別々に起こり相互に影響を与えただけで、

一方的に日本から神道が伝わったとは言えないだろう。


■中世の信仰に国家は関係ない


そもそも、信仰が国家・国民と結びつくのは、

そこまで過去に遡る事ではない。


キリスト強国は、異教徒を攻撃する事を、

絶対神の名において正当化しましたが、

そもそも絶対神の信仰がない東アジアの領域では、

そのような事は国民国家が誕生するまでなかった。


日本の神仏習合を挙げるまでもなく、

中国では唐代から、儒教・仏教・道教が混ざっていった。

人々は、何を信じようが自由だったのだ。


ひとつ事例を挙げれば、1451年、

海中道路である長虹堤を造営した尚巴志の国相である

中華系の帰化人、懐機(かいき)は工事の成就を感謝して


現在の那覇市の南、久茂地の松尾に、

長寿神社を建てて、天照大神を祀っている。

アマテラスオオミカミ


中華系の彼が天照大神を祀るという事は、

激しい日本への帰属意識があったのだろうか?

答えるまでもないことだと思うが・・


一方で、懐機は西暦1439年、

主君である尚巴志が、重篤な病になると、

病気の平癒を求めて、道教の総本山、

中国の龍虎山から張天師の護符を受けている。


こうして見ても分かることだが

中世の人々は、どの国の神という事に拘りはしない。

懐機は、天照大神に利益があると思って

工事の成功を祈り、主君の病を治してくれると信じて、

道教を信奉したのである。


そもそも琉球八社の創建は懐機の

長寿神社創建が皮きりだと言われている。


やたらに熊野権現を琉球に勧請したのも、

当時、熊野神社に勢いがあったから、

それだけの理由ではないのだろうか?


■信仰しているのは、琉球八社ばかりではない・・


明治政府は意図的に神道ばかりを強調していますが、

今の沖縄県民でも分かる通り、当時の琉球人は神道ばかりを

信仰していたわけでもない。


中国由来の土帝君をはじめとして、台所の火ぬ神(かん)や、

各地の御嶽、集落の発祥地にある井戸、ウフガー、

海に近い所では龍神の祠も祀るし

家では、仏壇のトートーメー(先祖の位牌)に敬虔な祈りを捧げる。


1800年に尚温王を冊封した李鼎元は、

「使琉球録」で、このように記録している。


琉球には尼僧や道士はいない、しかし神仙は敬している。

僧になるには、修行・授戒をすれば奉禄がある。

戒を犯せば、還俗して島流しにする。

今、寺僧を見るに知識はなく遊んで飽食し、昔の喝三僧や

経山の宗派に恥じる。

人民は僧を重んじ、仏を敬するというが、釈迦誕生日や、

七夕を知らない。

奇数の月には、婦人は浜辺に遊び、水神を拝して福を祈る


ー以下略ー


当時の庶民は、釈迦の誕生日も七夕も知らず、

適当に御利益があるという理由で仏を拝んだのだ。

坊主を重んじたというのも、李鼎元が言うように怪しく、

仏教信仰は、ほぼ貴族階層に限ったのが実相である。