新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

庶民にも身近だった進貢貿易

唐船どーい という歌は、中国からやってくる船を歓迎して、
庶民が走って那覇港に駆けつける様子をあらわした歌です。


そりゃあ、身内の人が無事に帰ってきたというのも
ありますから、嬉しいでしょうが、、
現代の人間から見ると、少し違和感があります。


中国から来る船って言っても、積まれているのは貴重な宝物だろう?
そんなの庶民には関係ないじゃないか・・


ころが、進貢船に満載されていたのは、宝物ばかりではなく
庶民にとっての生活必需品もあったのです。



それが上の表です、これでも、ごく一部なのですが、
線香とか、習字紙とか、油傘とか、お菓子の桔餅、
お茶、陶磁器、蛇の皮、胡椒、それから漢方薬の材料まで
庶民の暮らしに欠かせない商品が積まれているのが分かります。


船が入らないと日用品が品切れし商売あがったりですから、
進貢船が戻ると皆、「よっしゃ!」となったのは無理もありません。


200年以上の昔から中国は貿易の相手国であり、
その輸入品は琉球にとって欠かす事が出来ないものだったのです。


参考文献 豊見山和行 琉球・沖縄史の世界

琉球士族のステータス 家譜 家系図

家譜(かふ)系図(けいず)は、それぞれ異なるものです。
家譜は、先祖の履歴書、系図は先祖から今までの血統になります。
平たく言うと系図は家系図です。


琉球の場合、家譜も系図も、1609年の
薩摩侵略以後にもたらされます。
それまでは、誰々の先祖が誰という事に

琉球人は関心が無かったのです。


1689年、王府の中に系図座が置かれて、
士族に系図と家譜の提出が義務付けられると
この系図の有無が士族と平民を分けるステータスになります。


平民には系図を造る事は許されなかったので、
系図を持つものは、士族という認識が一般化します。


家譜と系図は、首里王印が押され、一部は系図座に保管
一部は、それぞれの家で大切に保存されました。



沖縄戦で、位牌と家譜だけを持って逃げる人がいた程に
沖縄人にとって家譜と系図は大事なものだったのです。


最盛期には、宗家400家と分家も合わせて、
3000以上あった家譜と系図は、沖縄戦で
その殆どが灰になりました。


しかし、現在、有志の人々の中で復元作業が盛んになり
今の所は700家の系図が残っています。




琉球の身分制度

琉球国には、以下のように大きくわけて、5つの身分がありました。
国王と王族は、最高の地位にあったのですが、実質権力がなく、
政治は、三司官と、その下位にある、表十五人という
組織で動かしていました。


上級士族と下級士族の壁は厚く、三司官や表十五人のような重要職には、
下級士族が昇進する事はほぼ不可能に近く、
中級官吏になり、親方(領地を持つ地頭)に登れば望外の出世でした。


平民は先祖の功績や家系図を持たないので無系と呼ばれましたが、
首里や那覇に住む、平民には商売で成功して士族の位を買う豪商が出るなど


仕事にあぶれて、生活に困窮している多くの
下級士族よりは豊かな生活をしている人々もいました。


級士族でも、格式に反する行いは罪に問われたので、
貧乏に耐えて、武士は喰わねど高楊枝を地でいく人もいたのです。