新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

昔、久米村は城壁で覆われていた?

ベトナムの抗仏運動を燃え上がらせた 琉球血涙新書

潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、
1867年に産まれたベトナムの独立運動家です。


彼は、10代の頃から、当時、ベトナムを植民地支配していた
フランスからの独立を考えて活動していた人物でした。


彼は、フランスの統治からベトナムが独立を回復するには、
西洋の近代化を学ばねばならないとした先覚者であり
1905年にアジアで唯一の近代化を成し遂げた日本に渡り、
そこで犬養毅の後援を得て、東遊(ドンズー)運動を開始します。

日本にベトナムから留学生を派遣して近代というものを
同じ漢字文化圏の日本から吸収する。

しかし、日本に期待したファンを失望させる事態が起きます。

東遊運動が革命の原動力になると考えたフランスは
日本政府に手を回し、フランスが朝鮮半島における日本の利権を
認める代わりに日本はベトナムにおけるフランスの利権を認める
という交換条約を結んでしまうのです。


これが、アジアのリーダーと目された、
植民地帝国日本のもう一つの顔でした。

それによりファン達、ベトナム人留学生は

日本政府に追われる立場になります。


日本政府は冷淡でしたが民間にはファン達、
ベトナム人留学生を命懸けで庇った人達もいます。
それも、また日本の一面です。


ファンは、日本を離れて清国に移り、
ここを独立運動の拠点にしますが生前には、
有効な運動を起せず、古都フエで軟禁されたまま
1940年に亡くなりました。




さて、1904年、ファンは、ベトナム人に危機意識と
フランスへの抵抗を呼びかけるべく、「琉球血涙新書」
というパンフレットを造り上げて、配布を始めます。

ここでは、日本の強制併合により国を失った琉球の
悲哀と悲惨な末路を取り上げていて、

今、フランスに国を奪われようとするベトナムも、
放置しておけば同じ末路だと訴えていました。

このパンフレットは大評判になり、
渡る人、渡る人を経て印刷が繰り返されていき
当時のベトナム人の独立運動家で読んでいない人間は
いないという程の大評判になりました。


万言を費やし、亡国の憂き目を見た琉球の
立場に同情した内容だったとされる
琉球血涙新書は、完全な形で残っておらず

ファンが琉球について触れた部分も欠落しています。


しかし、東洋の小さな島国の運命に、
同じ支配に苦しむ人々が決して無関心ではなかった

その証拠として琉球血涙新書はあるのです。

☆薩英戦争のとばっちりで被災した与那城王子

1862年、横浜港付近にあった生麦村を進んでいた
薩摩藩の行列を見物していた英国人の一行が遮り 

薩摩藩士に無礼討ちされる事件が起こります。


 これが世にいう生麦事件です。 英国は損害賠償と

首謀者の処罰を求めますが 薩摩藩は国法に従ったまでとして拒否。 

英国は報復として翌年1863年の7月に 7隻の艦隊を率いて

鹿児島湾に侵入します。 


当初、戦闘は無かったのですが、 同湾に停泊していた

薩摩藩の商用蒸気船3隻を 英国艦隊が戦利品として拿捕した事から、

 薩摩藩側は、これを窃盗と判断。 対岸の砲台から砲撃を加えます。


 これを受けて英国艦隊も薩摩藩の砲台に 攻撃を加え、

3日間に及ぶ戦闘が始まり 薩摩側は、砲台を殆ど破懐され、

 市街地に砲弾を原因とする火災が発生して 

多くの民家が焼けるという被害を受けました。 


一方の英国艦隊も薩摩の砲台の攻撃命中により 艦長を含む13名が戦死、

50名が負傷するという 大打撃を受けて撤退します。


 実は、この時、琉球からは与那城王子朝紀 を

代表とする船3隻が来ていたのですが、

 戦場になった磯に近かったので英国艦隊の 砲撃を受けて被弾、、

※与那城王子は、中央の人物


 貴重品を持ちだす暇もなく 薩摩の伝馬船に乗り込んで陸地に避難しました。 

この琉球のとばっちりの被災に対して 薩摩藩主は、

造船費、貨物代として 5000両を与えました。 


「やれやれ、命てぃーち 儲きたんでぃ ならんでぃ しむたん」

※やれやれ、命一つだけ儲けたという事にならんで 良かったわい 


と安堵したのも束の間、 翌々年からの薩摩藩に納める砂糖は、 

22万斤も増額になってしまいました。 

大体、戦争に遭遇すると あまりいい事は無い琉球でしたとさ、、