新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

琉球処分の側面

「琉球処分は一種の奴隷解放なり」


と言ったのは伊波普猷ですが、この言葉から
琉球の人民は王府の圧政から日本によって解放された
という印象が造り上げられました。

しかし、それは極めて一面的な見方に過ぎず、
沖縄県民としては鵜呑みに出来ない事です。


実際には、当時の日本は、清国との間で国境線を巡る
駆け引きが存在していました。


写真で見るように、資源のない日本はシーレーンを通じて
生糸などの生産品を売り、近代化に必要な資材を
海外から輸入するしかありませんでした。


しかし、台湾や琉球は、どちらに属しているか分からない
曖昧な地位にあり、日本としては同じく琉球への宗主権を主張する
清国に対して、その領土を確定させる必要がありました。


当時の清には強力な海軍があり、日本を圧倒していました。


これらの寄港地として、琉球が利用されてしまうと、
シーレーンが途絶され、朝鮮を支配して植民地とし
日本製品の市場を大陸に求めるという、
帝国主義経済は破綻してしまうのです。




日本政府は、琉球が例えどんな正論を言おうと、
それを無視して、琉球を自国に組み込むつもりであり
話し合うつもりなど一切ありませんでした。



日本は、琉球人の為に琉球処分を実施したのではなく
全て、自国の利益の為だったのです。


結果として琉球が沖縄県になり、中国に併合されるよりは
豊かになったのだとしても、それは日本の身勝手な
領土欲を正当化する理由にはならないのです。


私達は、目先の、豊かになっただろう?に
誤魔化される事なく、日本政府の身勝手さにいつも
警戒心を怠ってはいけません。




沖縄の文化に影響を与えた久米三十六姓

久米三十六姓とは、今から700年前頃から、
当時、浮島だった那覇に住みついて商業に従事した中国人の集団です。


彼等は、一般の中国人のように土地にしがみつく事がなく
広く外の世界に活躍の場を求めていった人々で客家(ハッカ)
と呼ばれる事もあります。


琉球は、この客家の人々を利用して、東南アジア海域の
貿易ネットワークを無料で活用し、航海士として雇い
中国向けの公文書を書かせるなど
進んだ、中国文化の窓口として重宝しました。


そんな久米人は、琉球に多くの文物と習慣を持ちこみ
今でも、沖縄にはその名残が残っています。


それが魔よけである石敢当や、沖縄土産のシーサー、独特の形をした
亀甲墓(かめこうばか)清明祭と旧盆に、死者へのお土産として
持たせる、あの世のお金、紙銭(かびじん)などです。


また、古来、琉球の人は豚よりも牛を好んで食べましたが、
中国人は、豚を好んで食べたので王府は需要を賄う為に
庶民に豚を飼うように奨励し、琉球人の食文化に豚肉食が根付きました。


焚字炉は、文字を重んじて神聖視した客家人の伝統で
文字をおろそかにすると、福が落ちると考え、
紙を燃やす専用の炉を造って、これを焼却しました。


今でも沖縄では、焚字炉の一部が、集落のあちこちに
遺跡として残っています。


久米村の人々は、今でも、氏族の紐帯を大事にし、
姓ごとに会を造って、共同で祀りを行うなど、
姿は変わっても、中国文化の影響を色濃く残しています。




http://setsuna.ti-da.net/e7691109.html

国王からの白紙委任状  空道

空道(こうどう)とは、国王の印だけを押した白紙の公文書で、
中国に渡る使節は、これを何枚も持っていきました。


どうして、こんなものが要るのかというと、
政変が多い中国では、琉球で書いた公文書が無意味になる
可能性が高かったからです。


国王は、使者にフリーハンドを与え、
その時点で最適な公文書を書くように命令していました。


また、文字については、
誰もが、同じ字を書けるように
徹底して教えていましたので、
違和感が生じる事はありませんでした。