新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

☆琉球に産まれた近代法典

琉球国時代というと、時代劇のイメージで
「庶民の人権など顧り見られなかった暗黒時代」だと
思うかも知れませんが、それは間違いです。


琉球においては、それまでの経験則に頼った裁判を一新するべく、
1786年に伊江朝慶、幸地良篤が奉行になり琉球初の
近代法典である琉球科律が造り上げられました。


※写真はイメージです。


さて、琉球科律がどうして近代法典であると言えるのか?


それは、現在の刑法の常識である
構成要件、有責性、違法性が揃わないと

それを罪として認めないという態度を取っているからです。

構成要件の件では、民家が放火で燃えた事件で
目撃証言で逮捕された男がいましたが、
出火当時に、現場にいたというだけで
目撃証言以外の証拠が出なかったので
無罪になっていますし、


有責性においては、心神耗弱が疑われる男が、
同僚の役人に殴りかかり怪我を負わせた裁判では、


男に罪の意識が無いという事が医師の診断や
尋問で認められ有責性を欠くので無罪となりました。


それ以外にも、琉球科律は、正当防衛を認め、
リンチを禁止し、緊急避難を考慮するなど、
現代の刑法や民法にも通じる、多くの先見性があります。


拷問を多用するのではなく、何度も被告に尋問を重ねて、
証言の矛盾点を突いて被告に自白を迫るというのも、
今日の捜査手法に近いやり方です。


また、琉球科律で裁かれた裁判記録は随時記載され、
後日、似たような事件が起きた時には、
過去の判例を参考にするなど人治ではなく、
法治政治を実践しようとした痕もあります。


琉球科律は、清国の科律を参考に造られていますが、
下級の罪でも頻繁に鞭打ちが出てくる清律と違い
琉球科律では、鞭打ちを寺入りや罰金に変えるなど
肉刑を避けようという配慮があります。


首里城の建材が変わった!その切実な理由とは

首里城が、戦乱や火災で何度も焼けた事は よく知られていますが、
それ以外にも、20年周期で修理と修復が あった事は余り知られていません。


 巨大な木造建築である首里城は、 以前はカシの木で作られていましたが、

 カシの木は、高温多湿の沖縄では腐食に弱く 

20年では腐り始めて建材を取り替える 必要性が生じました。


 しかし、小さな王国で20年ごとに城を 大規模補修するのでは、

 お金が幾らあっても足りません。 


18世紀の政治家、蔡温は、 この頻繁な建て替えに対して、 

建材をカシの木からイヌマキに変える 事を決断します。 


イヌマキは、関東以南の土地で、 防風林や庭木に使用された木で 

琉球でも多く生えていました。 


イヌマキは暴風や湿気、腐食に強い という特色を持っていたので、 

首里城の建材としてうってつけだったのです。 


さらに蔡温は、今後も永続的に 建材を手に入れる為に、

イヌマキを植林する他 琉球全土から、御用材として、

 生育の優良なイヌマキを指定して、 勝手な伐採を厳禁すると同時に、 

指定外のイヌマキも伐採には山奉行の許可が 必要とするなど保護政策を取ります。


 こうして以後、首里城の建材は、 カシの木からイヌマキに変更されます。

 因みに首里城の建築材は、 城内の木曳門から引き込まれていました。 



木曳門は通常は、石で塞がれ、 誰も通れないようにされていました。

 現在は、開かれ、扉がない門として 通学に利用されているようです。 

ちなみに現在の首里城は、 イヌマキか?というと残念ながら、

 調達が充分に出来なかったようで 柱や梁には台湾ヒノキを使い、

 外周にはイヌマキを使っているそうです。

☆那覇港を守る2つの砲台

那覇には、屋良座森と三重城という二つのグスク跡があります。


しかし、この二つのグスクは、一般的なグスクとは違います。

 両方のグスクは長方形に石積みがされその内外には15個の銃眼がありました。


 二つのグスクは那覇港の外海に向かって対になり 
海賊の侵入を撃破する砲台だったのです。 

実際に、西暦1556年、浙江省で暴れ回った 

大海賊、徐海の残党が那覇港に侵入した事があります。 

この時に尚元王は、守臣の馬必度に命じて 海賊を砲撃させ、

これを撃退し 捕らわれた金坤達6名の中国人を救出しました。


 この時に、二つの砲台に設置されていたのは 諸説ありますが、
仏郎機(フランキ)という洋式大砲だと 考えられています。 



このような沿岸砲台に似たものは倭寇に 苦しめられた
中国沿岸にもあり 山東省蓬莱水城は、

この那覇の砲台の モデルではないかと言われています。


 この仏郎機は、戦国日本では国崩しと言われ

 徳川家康が大阪夏の陣で大阪城を砲撃した とされるそれに近いものです。 


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E7%A0%B2


私達は、大砲というと攻撃兵器だと思いますが、
 当時の砲台には、まだ車輪がなく移動が難しい代物でした。 


そこで、船に載せるか砲台に固定して 防御兵器として使用していたのです。 
琉球は、鉄砲や大砲を積極的に取り入れ それを海賊退治に役立てていたのです。


海戦に慣れた倭寇に対しては、白兵戦を避けて、
大砲で追い払うのが一番合理的ですから、
琉球も、この方法を採用したのです。