新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成10

拒否する権利がない奴隷契約書

1877年、10月11日付の東京タイムズに掲載された、
「日本と琉球~明治政府の声明」は、Ⅰ~Ⅳに分れ、
古代から琉球が日本の一部であったとする詭弁を並べているという事は、
過去9回のシリーズで述べてきた通りである。


さて、時代は降り、島津氏による琉球侵略の後、
すなわち1609年以後を明治政府は、島津氏が琉球王尚寧に突き付けた
降伏文書を根拠に琉球の日本従属の根拠としている。


誓約書十五条


その同じ島津はまた琉球国王尚寧及びその直属の三司官が守るべき誓約書を作成、
国王及び三司官は自らを拘束することとなる誓約書に署名、後代に至る永劫不変の
忠誠と誓約書の遵守を誓ったのだった。
それ以前、国王は江戸に連行された上、島津の城下町鹿児島へと連れ戻され
藩主、島津家久のもとで3年に及ぶ幽閉生活を送っている。
 しかし、誓約書への署名を果たしたことで国王は三司官共々帰国が許された。



■明治政府の主張への反論


反論以前に、懲罰と称した侵略行為によって、
敗者に突き付けられた回避不能の降伏文書を恥じとして、
文箱の奥に仕舞いこむならともかく、それを19世紀後半の社会で開示して、
これが琉球が日本の一部である証拠であるとする明治政府の要人達の
前時代的な感覚には驚くばかりだ。


明治政府は、この誓約書を尚寧王、及び三司官、そして王府の首脳が
自発的に受け入れたかのように書いているがとんでもない話である。
100名余りに及ぶ、連行された王府首脳の中で、誓約書の名を冠した
奴隷契約書の署名を拒否した唯一人の人物である謝名親方は、
その自らの行為により、島津氏に斬首された。



出典 月刊沖縄社 カラー沖縄の歴史 87p


謝名の死が雄弁に物語るように、この誓約書十五条に
署名しない事はその人間の死を意味したのである。



こうした暗黙の死の脅迫を持って誓わされた、
「後代に至る永劫不変の忠誠と誓約書の遵守」なるものに、
後世に生きる我々は、僅かな意味さえ見出す事が出来ない。



■島津氏への従属は≒日本への従属ではない



勝者が敗者を即座に殺していた国際法なき17世紀初頭の
野蛮な降伏文書を持ちだし、それをして琉球が日本に属しているという
根拠とする明治政府の対応だが、そもそも、島津氏に所属している
琉球国がイコール明治政府の所属であるという理屈も珍妙である。



そもそも琉球国が、266年従属していた薩摩藩は、
1879年の当時、どこにも存在していない。
それは、1871年、7月14日の廃藩置県を受けて、
それまでの統治システムは解消され鹿児島県となった。



12代藩主の島津茂久、後の忠義も公爵として、
東京在住を命じられ政治から離れた。

島津忠義(1840~1897)


この時点で琉球は島津氏の支配を離れたのである。
前時代的な誓約書十五カ条も空文化したのだ。



明治政府は三百余藩を廃止して県を置いたが、
国家としては、薩摩藩ではなく徳川幕府を継承している。



その証拠として幕府が結んだ不平等条約は、
すべて明治政府が継承する事になったし、
幕府が外国に対して抱えていた負債もまた
明治政府が支払う義務を負ったのである。


また、徳川幕府は、諸外国に対しては琉球は異国である
という態度を繰り返していた事も銘記しておこう。



そして、徳川幕府は、直接琉球に干渉する事はなく
それは全て島津氏を仲介にして行われている。
これは、琉球が徳川幕府に直接従属しているわけではない
証拠である。

















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