三国志の世界にも、袁家のような名門があるように 琉球にも、五大門閥と呼ばれる エリート士族がいました。 その五大門閥とは、 向氏・翁氏・馬氏、毛氏(池城)毛氏(豊見城) という5つの門閥を意味しています。 向氏というのは王家の尚から分家した人々で 元々の王家です。 それ以外の四家は先祖の手柄や、 ... 続きをみる
琉球国の日常のブログ記事
琉球国の日常(ムラゴンブログ全体)-
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琉球にやってきた西洋人には、 賛美する人も批判する人もいましたが、 共通して挙げているのは琉球の清潔さでした。 石畳の道にはチリ一つ落ちていないし、 部屋の中もキレイに整頓されている。 どんなに貧しい家でも、清潔でない場所はない。 これには、当時の中国や朝鮮の道路の汚さとの ギャップが反映されてい... 続きをみる
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琉球の庶民にとっての財産は、 何と言っても豚でした。 豚は暑い琉球の貴重なタンパク源であり 疲労回復のビタミンBも豊富に含まれます。 それに冠婚葬祭、全てにおいて 豚肉料理は出るので、どんな貧困世帯でも 豚は飼わなければいけなかったのです。 そんな豚は庶民の家でフールとよばれる 石造りの立派な畜舎... 続きをみる
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1761年、琉球は大変な不作に見舞われ 年貢の未納が相次ぎました。 今と違い、食糧をお金で輸入という 時代ではないので尚穆王は飢饉に備えて、 百姓のさらなる倹約を申しつけます。 それが正月とお盆に豚を潰して食べる事を 当面禁止するという豚肉禁止令です。 しかし、1年の楽しみが正月と盆に 豚肉を食べ... 続きをみる
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琉球国でも宮仕えの人は上司との関係に苦労しました。 そこで、上司に怒られた時に共通した謝罪の方法がありました。 それは、ミスをした上司の家まで、酒壺を2つ持っていくというものです。 この酒壺を持って、上司に謝罪しつつ、酒を勧める。 そこで上司が酒を飲んでくれたら謝罪完了です。 安直というか何という... 続きをみる
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琉球の王様が被る冠は、 皮弁冠(ひべんかん)といい うちなあぐちでは、 たまんちゃーぶいと言います。 王の権威の象徴である皮弁冠は、 動物の皮で造られ、表面には、サンゴや宝石などの 玉が百以上も配置された豪華なものです。 ところで、この皮弁冠には、 横に大きなパーツがついていますが、 あれは、一体... 続きをみる
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琉球人の髪型というと、髪を団子状態にして 頭の上でまとめるヘアスタイルを連想する方も 多いと思います。 あれは、カタカシラと言って、 13世紀頃にはすでにあったと言われる 琉球男性のヘアスタイルでした。 元々は、片頭というだけあり、 頭の左側に寄っていたのですが、 17世紀頃からは頭の上にまとめる... 続きをみる
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沖縄県は、うるまのような県産タバコでも有名な タバコの愛好者が多い土地でした。 その歴史は古く、1550年代に、 ルソン(現フィリピン)でスペイン人が 新大陸にあった喫煙の習慣を広めて それをルソンに来た琉球人が覚えて 持ち帰った事が始まりという説があります。
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王候貴族の食事というと、万漢全席のような 豪華なものをイメージします。 しかし、こと、琉球国王となると、儀式の時は別として、普段の食事は 質素なものだったようです。 、 まず、①ご飯、②味噌汁(具はよもぎかシソか若葉・鰹出汁か醤油出汁) ③ウマカイと呼ばれる、島野菜とかき豆腐、それに魚か肉団子を加... 続きをみる
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琉球士族は、ポイント制で、昇進できるシステムでした。 これを星功(ほしこう)といい、毎日、決まった業務を行うと 少しずつ、勤星が加算されていく仕組みでした。 ※図は、八重山士族で、耕作筆者(農業監督人)として 従事していた士族の星功調です。 しかし上級士族と下級士族では、 星功の貯まり方に大きな違... 続きをみる
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首里王府の役人達は、いつから登城して、 いつ帰っていたのでしょうか? 昔の事ですから、結構な重労働かと 思いきや、 そうでもなかったようです。 記録によると、仕事の開始時間は朝の10時、 そして帰るのが 午後3時だと書かれています。 さらに、月の出勤日数も12~3日程度と とても少ないもの... 続きをみる