新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

地割制が琉球の発展を阻害したのか?

地割制とは何か?


地割制は琉球国において、
租税徴収の基礎となった制度であるとされる。
すなわち、王府は各間切、各村に住む住民に土地を割当てて、
そこに年貢を課し、厳しく取り立てる事によって
財政を維持したというのである。


また、王府は土地の私有を認めず、同時に平等を担保する為に、
7~8年ごとに土地の割り当てを変えていた。
その為に土地を私有できない農民の勤労意欲は上がらず、
琉球の農業の発展に深刻な遅れを招いたとされ、
これを王府の失策の一つとして捉えるケースもある。


地割制に王府は関与しなかった不思議


それだけ聞くと、なるほど、もっともな言い分に聞こえる。
土地の私有を認めず、年限で土地を変えていれば、
共産主義よろしく労働意欲は上がらないからである。


ところが、そのような王府は地割制度に介入した様子はない。


地割制度と言っても、収穫高で土地を分配する方法、
土地のランクを組み合わせて分配する方法、
年齢によって分配する方法、家族の人数で分ける方法と
各村において、その方法はバラバラであった。


また、農地の分配も村ごとにバラバラ、一年ごとに変更する
糸満のケースもあれば、再分配しない美里村のケースもあった。


もし、王府が介入しているならば、
このような農村の自主的な割り当てを認めず、
より能率よく収穫量が上るように指導する筈である。


にも関わらず、王府は、ただ御触れにおいて、
「全体に不公平が出ないように配当する事」
と述べるだけで、あとは丸投げなのだ。


実際は地割制は村々の自主性に任され、
すべての村人に不公平が出ないように公平に
分配されていたのである。


実質よりも負担が重い検地の不思議


島津氏による琉球侵略の後、早速島津氏は検地を行い、
年貢を収奪できる琉球の石高を測っている。
これにより9万石余りが琉球国の石高になったが、


これを元に造られた名寄帳の負担は、
当時の琉球の田地の生産性を
遥かに超えるものになっている。


例えば慶長検地で上田とされた西銘村の収穫高は、
一石四斗(252L)だが、明治37年の沖縄県統計表では、
もっとも米が取れた金武村でさえ収穫量は
9斗(162L)にしかならない。


1609年の段階で一石四斗というのはあり得ないのだ。
しかし、重すぎる年貢負担はキチンと支払われている
その理由は何なのだろうか?


王府は米や雑穀で全ての年貢を支払ったのではない


当時の年貢の計算は石高で表わされるので、
我々は無意識にそれは米や穀物で
支払うのだと

思いこんでいるがしかし、それは間違いなのであって、
王府は米や雑穀の年貢を黒糖や反物、ウコンで
代納していたのである。


換金作物である黒糖や反物、或いはウコンは、
島津氏にとっても好都合だった。
それらは大阪に運ばれて金に替えられ、米なり穀物なり
必要な物資に自由に替えられたからだ。


農民は収穫物ではなく労働力を提供していた


では、サトウキビやウコンは、どこで生産されていたのか?
それは、地割制で割り当てられた農民の土地ではなく、
別に大きな土地を用意し、村役人が監視役になって、
農民を動員して働かせていたのである。

ウィキペディア


それについては、羽地仕置に農業地の開墾を認めて、
地頭などに領地を増やさせて、替わりに旧来の肥沃な土地を
取り上げて、そこにサトウキビやウコンを植えて、
農民に耕作させたという記述がある。


※月刊沖縄社、カラー沖縄の歴史100P上段


地頭の土地なら、地割制とは無関係なので
名寄帳への記載は無い事になる。


つまり、農民は、決められた日数、旧地頭地で、
村役人の監督の下でウコンやサトウキビ生産に従事して
島津氏に代納する換金作物を生産し、その後に地割地に戻り、
自分達が食べるものを生産していたのである。


このような状態の農民から、
王府が無慈悲に年貢を取り上げたというのは
全く不可能に近い話だ。


厳しかったのは、換金作物を造る為に
使役される労働や、地頭代のような地元役人が
適当な名目で取り上げる税だったのだ。



土地の私有は生産性の向上とセット


王府からすれば、地割制の土地は、農民達の食べる為の土地で
年貢とは関係が無い、そうであれば、関わる必要もなく
精々、喧嘩にならないように=不利益を被る人が出ないように
よろしくやってくれという事にしかならないのだ。


このように地割制の土地とは、あくまで家族が食べるものを
生産する土地であった。
そこでは、換金作物を植える事は厳禁にされていたし、
家族が食べられればいいのだから、土地を拡大する必要もない。


また、土地の私有を解禁すれば、農民の労働意欲が増すというのは、
あくまでも生産性の問題である。


1の土地を耕し、1・1の収穫があれば、
その0・1を蓄え農地を広げる事に意味はあるだろう。
その場合、10の土地を耕せば、1の余剰が産まれるからだ。


しかし、1の土地を耕し1の収穫しかないなら、
土地を10倍に広げても余剰が産まれる事はない。
ただの骨折り損のくたびれ儲けでしかない。


明治に入っても、沖縄の農地は本土のそれの
6割程度しか収穫量が無かったのだから、
その痩せ度合いが分る。


そんな状態では、仮に土地の私有を認めた所で、
農民の勤労意欲が上昇する事はない。



土地の私有を認めれば生産性が向上したというのは、
当時の沖縄の農業の生産性を無視した考えである。


土地が肥沃で米や穀物で年貢を納められた
本土の農民とは異なり、琉球では土地は痩せていて
そこから年貢を取るのは不可能だった。


代わりに王府は、元の地頭地などをサトウキビや、
ウコン畑にして、農民に労働力を提供させて、
島津への年貢を支払っていたのである。












盲目的に従順ではなかった琉球の庶民

自らの利益を考え行動する庶民


私達は、いつも前時代をこのように錯覚します。


「昔の人には義務教育もないし、知識も乏しいから、
ただ権力者の言うままに働いて搾取されていたに違いない
可哀想な事だなあ・・」


しかし、これは間違いです。
義務教育がないから知識が乏しいという事はありません。
長年生きていれば、役人の悪辣さも分かります。
今より、人と人の関係が密ですから、自分が見えない部分の
情報も人づてに入手する事も出来たでしょう。


そして、それは時として逆襲という形で権力者に
襲いかかってくるのです。


支配者を密告で逮捕させた農民達


それが端的に現れたのは、明治12年五月の事です。
明治政府の仕事をボイコットしていた知行持ちや、
諸座、諸蔵の役人が例年通りに農民から
麦を徴収しようとしました。


明治政府は、すでに旧藩は崩壊している事を理由に
この違約を責め、警察を派遣して関係者を逮捕します。


それは旧奉行、安室親方、吟味役津波古親雲上、
頑固党の中核にいる与那城按司、津嘉山親方、
沢岻親方及び、各間切や宮古、八重山の役人まで
百名余りが一斉に検挙され、両手を縄で縛られ
棒で殴られるという拷問を受けました。


表向きは明治政府の命令に違反した事ですが、
実質は暴力で締めあげて命令に従わせようとしたのです。


泣き叫ぶ声は、2~3町先まで聞こえたと言いますから
2~300mにもなります。


庶民は、毎日繰り返される凄惨な拷問の事を、
昔話として語り継ぎました。


ところが、この警官達に役人の居場所を教えたのは
那覇・小禄・豊見城に住んでいた貧しい農民でした。
なんらかの利益もあったのでしょうが、
同時に搾取されて苦しめられた意趣返しをした
そういう事もあったのだと思います。


地頭代を暴力で奪いかえそうとする農民


一方で、農民の怒りは明治政府に向けて
爆発する事もありました。
明治12年の11月、北部の屋部村の地頭代が
羽地や今帰仁間切の地頭代と共に、
「命令に従わない」という理由で羽地分署に
連行され、拷問を加えられる事1カ月余りという
凄惨な事態になりました。


農民達は対応を協議し、ついに力づくで、
地頭代を奪い返す事で意見がまとまり、
岸本太一を首領とする百五十名が手に手に、
棒や鉈を握って、羽地分署に押し入ろうとします。



その途中、山入端という人物が一行を見咎めて


「すでに国王様でさえ東京に連行されている、
今更、反乱を起こしても成功はおぼつかない
ましてや、地頭代を武力で奪い返すなど
後で、どんな禍いが村に降りかかるか分らないぞ」



と説得したので、一行は思い留まり、
屋部村に引き返していきました。


地頭代は、農民を搾取する側ですが、
ここでは、横暴な明治政府から
地頭代を奪いかえそうと
農民は地頭代の側についたのです。



モノ言わぬ農民、従順な農民のイメージは、
一面では本当でしょうが一面では違います。
世替わりを前にして、農民達は農民達なりに
今の私達と同じように世の中を見て
利益がある方に、或いは、道理がある方に
揺れ動いていたのです。





 琉球国滅亡に庶民は無関心だったのか?

明治政府と階級闘争史観で消える民と王の絆



琉球国時代、多くの農民は圧政で搾取され続け、
明治政府の支配を喜び王国が崩壊しても無関心であった。
多くの歴史書には、そのように書かれています。




確かに当時の琉球人の多くが貧しく重税にあえいでいた
というのは事実ですが、それはただちに王制の打倒、
明治政府の歓迎に繋がったのでしょうか?


政府の官憲が記した王国最期の日


一概にはそうとも言い切れないと言える資料が実は存在します。

”1879年4月27日、中城王子(尚典)出立の日だった。
一万人以上の群衆が那覇へと続く道路の両側を
埋め尽くしていた。空には雲一つなく快晴。

5月27日、最期の国王尚泰と、
その廷臣96名が亡命の地、東京へ向かうべく門を出た。
老若男女の群衆が皆、礼装のまま涙を流しながら
那覇へと続く道路に平伏していた。
その様子を見ていた日本人の警官さえ、
涙を抑える事が出来なかった。”

こちらは、分遣隊の警官だった岡規(おか・ただす)の書いた
琉球出張日誌の一文です。

琉球処分官、松田道之は、処分後も庶民には何の動きもなく
これ平穏などと書いていますし、それも間違いではないでしょう。
しかし、武力で国王を取り戻すような事件はなくても、
琉球人は、少なくとも二回、1万人という大勢の人々が、
正装をして跪き、自らの仰いだ象徴が琉球から去るのを見送ったのです。


圧政からの解放をスローガンにする日米、階級闘争史観


明治政府は意図的に琉球人は搾取されており、
自分達はそれを解放しにきたと主張しています。
その後にやってきた米軍の統治でも、



「琉球国時代の統治も大日本帝国の統治も
人権を無視したヒドイモノであり米軍こそが
自由と民主主義を沖縄に与えに来た」


などと言っていました。


米軍の統治が終わり、日本への復帰になると今度は、
階級闘争史観に基づく、ソビエトや中国の礼讃、
日本・アメリカを帝国主義として糾弾する風潮が顕著になります。


もちろん、その基調となるのは、階級闘争史観ですから、
被支配者が支配者を打ち倒すのを歴史の必然とするものです。
そうなると、琉球国時代の政治も、ひたすら民を搾取するだけの
ヒドイモノであるという記述になるのです。


彼等はそうして人民の政府を造る事を志向したのでしょうが
それが成功する事はなく、そこに産まれたのは、
王府に搾取され、薩摩に搾取され、日本に搾取され、
アメリカに人権を蹂躙されたという沖縄人可哀想史観であり、
歴代の支配者を恨むだけの卑屈な根性しか残しませんでした。


一揆は408年で一度だけ驚異的に平穏な国


日本、朝鮮半島、中国だけを見ても、その末期は、
暴動や反乱、一揆の連続である事が分ります。


しかし、酷政に喘いでいた筈の琉球で、そのような一揆が起きた
記録は一度しかなく、それも、署名を集めて王府に提出するという
極めて穏当なものでした。



反乱を起こせない程に抑えつけられていた?
そうでしょうか、食うや食わずになれば、
そうも言っていられないでしょう。


大体、強大な軍隊で首都を守っていた他国と違い、
琉球には薩摩の侵略以後は常備軍はありませんでした。
あったのは、筑佐事をメインとする100名程度の
小規模な警察組織だけです。


数千人規模の一揆でも、あっさり首里城は落ちたでしょうに
どうして、そうしなかったのでしょうか?
琉球よりずっと物質的には恵まれていた筈の徳川幕府でさえ
末期は農民の一揆と打ち壊しに悩まされていますが・・


民は役人を恨んでも王を恨んではいなかった


琉球の王の生活は、中国や欧州の君主とは大きく違い質素なものでした。
大きな儀式のある時以外は、当時の中流階層と変わらない食事を摂っています。
また、飢饉が起きると、食事を減らすなどして民の苦痛を分かち合うという
行動を自主的に行っています(尚穆王のケース)


グルメ男爵と言われた、尚泰王の四男、尚順は
少年時代の思い出話で、


「肉やカマボコが食べられるのは、
月に一~二回程度、夜の8時以降は、厨房の火も落されるので、
お腹が空いた時には、もらったお菓子などを食べていた」


と回想しているように、中国皇帝のような満漢全席を
イメージすると間違います。


実際は、豪商や高級士族は王様より美味いモノを
食べていたのです。



庶民は自分達を搾取する役人を憎む事はあっても
国王を憎む事はありませんでした。


民との距離が近かった琉球国王


現在も首里城のお正月のイベントである朝之御拝(ちょうぬうぬふぇ)は
昔の首里城の儀式を再現したものです。


ここでは、最初に群臣が御庭に集まり、正殿の中二階から、
顔を出す国王と王妃に挨拶をした後、首里の平民が、
入ってきて同じように新年のあいさつをしていました。


つまり、当時の首里の人々にとって国王は雲の上の殿上人ではなく
国王の顔も王妃の顔も知る身近な存在だったのです。
新年を臣下だけではなく、民とも祝おうというのは琉球だけに
見られる特徴だと思います。



徳川幕府において、幕府が江戸城を解放し、
庶民を入れて将軍が顔を見せるなどあり得ないでしょう。
将軍が城を出る時でも土下座して顔を上げるなと言う筈です。


また、琉球では、尚灝王が隠居後に農業に凝り瓜を造って売った話。
尚敬王が医師のまねごとをして市中に出て往診した話など、
真偽は分らない噂が昔話として残っています。



王国時代は忌むべき時代では無く歴史の一部


私は琉球の歴史というのは、イギリスの王制に近いと思います。

革命が起こらず、王制が倒れなかったイギリスにも、
歴代の王のゴシップが昔話として伝わっているからです。


社会主義の古ぼけた階級史観に立つと、ただ庶民を虐げてきた
支配者でしかない琉球国の時代ですが、この時代に産まれた文化、
芸能、歌、或いは建造物は現代の私達に恩恵を与えていないでしょうか?
もし、それらを庶民が支配されていた時代の無価値なモノと見做すなら、


私達は、たかだか100年少々の民主政の歴史しか知らない
薄っぺらな民族になってしまうでしょう。
もちろん、同様に日本による支配、アメリカの支配も、
良い所は取るという寛容さが必要だと思います。