琉球士族は、ポイント制で、昇進できるシステムでした。 これを星功(ほしこう)といい、毎日、決まった業務を行うと 少しずつ、勤星が加算されていく仕組みでした。 ※図は、八重山士族で、耕作筆者(農業監督人)として 従事していた士族の星功調です。 しかし上級士族と下級士族では、 星功の貯まり方に大きな違... 続きをみる
2015年6月のブログ記事
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貿易により富を蓄積していた琉球は、倭寇などの略奪を警戒し 人口八万人という小国ながら、軍船を基準とした軍事組織を発展させました。 それは4000名という規模であり、人口の5%に達します。 これを、現在の日本に当てはめると、600万人という規模になります。 当時の琉球は海外遠征もしており、結構な軍事... 続きをみる
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伊是名王統は、尚円金丸を初代とする王朝で 佐敷王統の尚徳王の死後にクーデターを起こして樹立され 1470年から、1879年まで409年続きました。 ほぼ、日本の戦国時代と江戸時代を合わせた長さがあります。 その王様の数は19名にも上ります。 徳川幕府でさえ、263年で15代に過ぎません。 中国では... 続きをみる
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唐船どーい という歌は、中国からやってくる船を歓迎して、 庶民が走って那覇港に駆けつける様子をあらわした歌です。 そりゃあ、身内の人が無事に帰ってきたというのも ありますから、嬉しいでしょうが、、 現代の人間から見ると、少し違和感があります。 中国から来る船って言っても、積まれているのは貴重な宝物... 続きをみる
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家譜(かふ)系図(けいず)は、それぞれ異なるものです。 家譜は、先祖の履歴書、系図は先祖から今までの血統になります。 平たく言うと系図は家系図です。 琉球の場合、家譜も系図も、1609年の 薩摩侵略以後にもたらされます。 それまでは、誰々の先祖が誰という事に 琉球人は関心が無かったのです。 168... 続きをみる
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久米三十六姓とは、今から700年前頃から、 当時、浮島だった那覇に住みついて商業に従事した中国人の集団です。 彼等は、一般の中国人のように土地にしがみつく事がなく 広く外の世界に活躍の場を求めていった人々で客家(ハッカ) と呼ばれる事もあります。 琉球は、この客家の人々を利用して、東南アジア海域の... 続きをみる
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空道(こうどう)とは、国王の印だけを押した白紙の公文書で、 中国に渡る使節は、これを何枚も持っていきました。 どうして、こんなものが要るのかというと、 政変が多い中国では、琉球で書いた公文書が無意味になる 可能性が高かったからです。 国王は、使者にフリーハンドを与え、 その時点で最適な公文書を書く... 続きをみる
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潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、 1867年に産まれたベトナムの独立運動家です。 彼は、10代の頃から、当時、ベトナムを植民地支配していた フランスからの独立を考えて活動していた人物でした。 彼は、フランスの統治からベトナムが独立を回復するには、 西洋の近代化を学ばねばならないとした先覚者であり... 続きをみる
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1862年、横浜港付近にあった生麦村を進んでいた 薩摩藩の行列を見物していた英国人の一行が遮り 薩摩藩士に無礼討ちされる事件が起こります。 これが世にいう生麦事件です。 英国は損害賠償と 首謀者の処罰を求めますが 薩摩藩は国法に従ったまでとして拒否。 英国は報復として翌年1863年の7月に ... 続きをみる
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琉球国時代というと、時代劇のイメージで 「庶民の人権など顧り見られなかった暗黒時代」だと 思うかも知れませんが、それは間違いです。 琉球においては、それまでの経験則に頼った裁判を一新するべく、 1786年に伊江朝慶、幸地良篤が奉行になり琉球初の 近代法典である琉球科律が造り上げられました。 ※写真... 続きをみる
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首里城が、戦乱や火災で何度も焼けた事は よく知られていますが、 それ以外にも、20年周期で修理と修復が あった事は余り知られていません。 巨大な木造建築である首里城は、 以前はカシの木で作られていましたが、 カシの木は、高温多湿の沖縄では腐食に弱く 20年では腐り始めて建材を取り替える 必要... 続きをみる
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那覇には、屋良座森と三重城という二つのグスク跡があります。 しかし、この二つのグスクは、一般的なグスクとは違います。 両方のグスクは長方形に石積みがされその内外には15個の銃眼がありました。 二つのグスクは那覇港の外海に向かって対になり 海賊の侵入を撃破する砲台だったのです。 実際に、西暦... 続きをみる
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歴史認識を巡り、ギクシャクしている韓国と日本ですが、 琉球と朝鮮には、日本とは違った繋がりがありました。 西暦1592年、8月、秀吉が朝鮮出兵の軍を起した頃、 朝鮮半島と中国の国境沿いにある平安道の義州で 驚くべき風聞が出回りました。 「秀吉軍の混乱に乗じて、琉球人が 秀吉を暗殺したこれ... 続きをみる
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琉球と言えば進貢船という程にセットの感のある進貢船ですが、 この船は軍艦だった事をご存じでしょうか? 元は、明の時代に海賊対策として省の海軍に配備された 払下げの船で、 大きさは550トンで、 収容人数300名という大型船でした。 軍艦とは言え、明王朝は武器まではくれなかったので、 琉球は装... 続きをみる
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琉球史を複雑にしているのは、 第一尚氏と第二尚氏という 数字の連続性がある 二つの王朝の存在です。 しかし、この第一尚氏と第二尚氏の分類は、 歴史学的に根拠がある事では全くありません。 そもそも、この二つの王朝は姓が同じなだけ、 血統の共通性も無ければ 王朝を構成している人物も全く別、、 ... 続きをみる
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首里王府の役人達は、いつから登城して、 いつ帰っていたのでしょうか? 昔の事ですから、結構な重労働かと 思いきや、 そうでもなかったようです。 記録によると、仕事の開始時間は朝の10時、 そして帰るのが 午後3時だと書かれています。 さらに、月の出勤日数も12~3日程度と とても少ないもの... 続きをみる
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後には守礼の国と称えられ、大人しい温厚な人々になった 琉球の人も、15世紀は戦乱の真っ最中で、 凶暴で勇敢な人々と周辺国に恐れられていた時期があります。 西暦1448年1月、正月の挨拶を述べる為に、 北京に上った使者謝花ですが、 彼の従者は荒くれ者が多かったのか 四川長河の西の番人達と 会同... 続きをみる
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これまでの歴史では、大和政権は、琉球を直接支配してはいないものの、 名目上の臣下として扱っていたと言われてきました。 ですが、その研究自体が、沖縄が日本に併合された後に 行われたもので、沖縄=日本という先入観に支配されたものでした。 実際には、下の足利将軍から送られた文を見ると、 内国と琉球... 続きをみる
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尚真王は、琉球各地に散らばっていた按司を 首里に集めて、中央集権体制を強化します。 王は、配下の按司達に多額の給与を与え 領地に戻る気がしなくなるように 仕向けるばかりではなく、 お互いが反目しないように、 首里を3つの平等(ふぃら)に分けて、 それぞれ、南山、北山、中山の按司を 纏めて配置... 続きをみる
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今の首里城は、木造建築の瓦葺ですが、 これは、 1715年に焼けたのを再建したものを参考にして 戦後の1992年に復元されたものです。 それ以前から首里城は、何度か焼けていて、 一番最初に建てられた頃にはどんな姿をしていたかは 実はよく分かっていないのです。 最初に焼けたのは、1456年と... 続きをみる
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池城親方安規は、琉球処分の前段階で、 理不尽な明治政府の要求に 最期まで、抵抗した三司官の1人です。 1829年、首里の名門、池城殿内に生まれた安規は、 40代を迎える頃には、三司官として琉球の日本併合という、 過去500年の歴史で最大の難問に当る事になりました。 1875年、琉球の日本化を図る、... 続きをみる
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このように沖縄の歴史は、日本の影響を受けていない部分が多く、 日本史の地方史で教えると、混乱する事が多いのです。
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日本史でいう黒船とは、一般にペリー艦隊の事を意味します。 しかし、琉球史における黒船はペリーではないのです。 西暦1844年、フランス艦隊のデュ・プラン提督率いる 軍艦アルクメーヌ号が 那覇港に入りました。 それまでの友好を深めるという理由ではなく、 通商やキリスト教の布教を求めてきたのです。... 続きをみる
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日本史の一部としての沖縄を覆し、あくまで沖縄視点から、 歴史を見てみると、年表はこうなります。
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これは、世界地図を回転させて、 沖縄本島を中心に見た世界です。 台湾や、中国福州がとても近く、 日本の九州とフィリピンが同じ位の 距離離れている事が分かります。 そして、丸で囲まないと見えない程に 沖縄が小さな島である事に改めて 驚くのではないでしょうか? この小さな沖縄は、 今から、135年前... 続きをみる
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琉球の巧みな外交 0001
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1879年の琉球処分ですべてが終わったかに見える 琉球の日本併合ですが、強引な日本の手法に対して 世界からも様々な意見が出ました。 清の改革派であった、駐フランス、駐イギリス公使 郭嵩燾(かく・すうとう)は、 清朝の琉球進貢を免除すると同時に、 国際法の視点から、世界が琉球の主権を尊重し 日本から... 続きをみる
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琉球では、伊是名王統の8代、尚豊王までは うちなあぐちでの神号がありました。 日本の天皇も54代仁明天皇までは、 やまと言葉の神号がありましたが、 どうしたわけか、その後は付けられなくなります。 琉球の場合は、薩摩の侵略後に、 神号は琉球人のアイデンティティを呼びさまし よろしくないという理由で薩... 続きをみる
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琉球王は、薩摩や幕府から 任命されてなるものではありません。 その任命者はキミテヅリの神であり 即位式を経て王になります。 それは、琉球が独自の王権であった 証明であり、 天皇によって、支配権を与えられた 徳川幕府や、幕府に統治権を 認められた薩摩や他藩とは存在が 大きく違うのです。 にほんブログ村