沖縄の文化に影響を与えた久米三十六姓
久米三十六姓とは、今から700年前頃から、
当時、浮島だった那覇に住みついて商業に従事した中国人の集団です。
彼等は、一般の中国人のように土地にしがみつく事がなく
広く外の世界に活躍の場を求めていった人々で客家(ハッカ)
と呼ばれる事もあります。
琉球は、この客家の人々を利用して、東南アジア海域の
貿易ネットワークを無料で活用し、航海士として雇い
中国向けの公文書を書かせるなど
進んだ、中国文化の窓口として重宝しました。
そんな久米人は、琉球に多くの文物と習慣を持ちこみ
今でも、沖縄にはその名残が残っています。
それが魔よけである石敢当や、沖縄土産のシーサー、独特の形をした
亀甲墓(かめこうばか)清明祭と旧盆に、死者へのお土産として
持たせる、あの世のお金、紙銭(かびじん)などです。
また、古来、琉球の人は豚よりも牛を好んで食べましたが、
中国人は、豚を好んで食べたので王府は需要を賄う為に
庶民に豚を飼うように奨励し、琉球人の食文化に豚肉食が根付きました。
焚字炉は、文字を重んじて神聖視した客家人の伝統で
文字をおろそかにすると、福が落ちると考え、
紙を燃やす専用の炉を造って、これを焼却しました。
今でも沖縄では、焚字炉の一部が、集落のあちこちに
遺跡として残っています。
久米村の人々は、今でも、氏族の紐帯を大事にし、
姓ごとに会を造って、共同で祀りを行うなど、
姿は変わっても、中国文化の影響を色濃く残しています。