新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

・混乱の元 第一尚氏と第二尚氏

琉球史を複雑にしているのは、 第一尚氏と第二尚氏という

数字の連続性がある 二つの王朝の存在です。 


しかし、この第一尚氏と第二尚氏の分類は、
歴史学的に根拠がある事では全くありません。 


そもそも、この二つの王朝は姓が同じなだけ、
 血統の共通性も無ければ 王朝を構成している人物も全く別、、
 赤の他人王朝なのです。 


では、どうして赤の他人王朝に、 第一、第二という

連続性がある数字が振られたのか?


 それは、第二尚氏の始祖である金丸が、

 第一尚氏の姓である「尚」を勝手に名乗ったからです。 

金丸は中国から冊封を受けて王になるに際し 自分がクーデターを起こして

以前の王朝を 滅ぼした事を中国に責められるのを恐れました。 


そこで、先代の尚徳王の息子が自分と偽り 

尚姓を継いで、シレッと王になったのです。


 尚徳王は、亨年29歳とも40歳とも言われますが、 

その時に金丸は54歳でした、 息子が父親より年上とは前代未聞です。
 
この金丸の方便で後世の歴史家は 混乱してしまいました。

戦前には、まだ琉球史の研究が進んでいないので、
研究者は金丸のクーデターは知っていても
二つの王朝には、それぞれ尚姓を名乗っている以上は
何らかの関連性があると考えてしまったのです。


こうして赤の他人同士が起した二つの尚王朝は、
第一・第二と便宜的に分けられる事になります。

 これは、豊臣家を滅ぼして天下を取った 徳川政権を

第二次豊臣政権と呼ぶ位に トンチンカンな事です。 


私のサイトでは、紛らわしさを解消する為に
 第一尚氏は、創建者の尚巴志の 故郷、南城市佐敷から取り 「佐敷王統」
 
そして、佐敷王統を滅ぼした、 金丸の王統を金丸の出身地である 
伊是名島から取り、 「伊是名王統」と呼ぶ事にします。 


こうする事で、両王朝の違いを明確にして別のカテゴリに
分ける事が歴史的には正しい視点だと思うからです。

☆王府の役人の仕事風景とは?

首里王府の役人達は、いつから登城して、 

いつ帰っていたのでしょうか? 


昔の事ですから、結構な重労働かと 思いきや、
そうでもなかったようです。


 記録によると、仕事の開始時間は朝の10時、
そして帰るのが 午後3時だと書かれています。 
さらに、月の出勤日数も12~3日程度と とても少ないものでした。 



しかも勤務時間内には昼食タイムがあるので、 
実質の仕事時間は4時間程度という事です。
 役人達の中には、正午には帰宅して 昼飯を食べる人もいましたが、
 高級役人は、家から弁当を持ってこさせて 城内で食事をしていました。


 時計の無い当時、それぞれの時間は漏刻門で太鼓を叩いて知らせ、 
さらに城庭、西のアザナ、右掖門の3箇所で 大鐘をついて拡散させていました。


 さて、どうして王府の役人の勤務時間が短かった のかと言うと、
それは彼等がパートタイマー だったからです。


 王府は、士族の人口が増加すると、 出勤する士族を3交代制にして
 出来るだけ、多くの士族に仕事を割り当てる為に
 勤務日数と勤務時間を減らしていたのです。 


一種のワークシェアリングですね。

☆琉球の使節 北京で中国人と大喧嘩

後には守礼の国と称えられ、大人しい温厚な人々になった 

琉球の人も、15世紀は戦乱の真っ最中で、 
凶暴で勇敢な人々と周辺国に恐れられていた時期があります。 


西暦1448年1月、正月の挨拶を述べる為に、 北京に上った使者謝花ですが、

彼の従者は荒くれ者が多かったのか 四川長河の西の番人達と

会同館(外国人用ゲストハウス)の門外で 大喧嘩をします。 

この喧嘩は、重傷者や死者が出る大騒ぎになり、 

役人は英宗帝に上奏、皇帝の命令で首謀者は逮捕され、 

禁裏を騒がせたとして処刑されました。 


通常は、このようなトラブルが起きると朝貢は 禁止になるのですが、
この時は大きな外交問題には なっていません。

 という事は、琉球ばかりではなく、中国人側にも 

過失があったという事になったのでしょうか、、


 ※参考文献 首里城王統紀 比嘉朝進 著